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すっかりサボリ癖がついてしまった我がブログ。
先日はこの神様のいる国へ行ってきました。

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神様の膝元には、こんな人(?)もいました。

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近いうちに旅行記を再開させるつもりではありますが、
その前にお知らせを。


7月4日(土)、NHK文化センター主催で開催される「女性のためのゆったり競馬入門」の講師を務めます。

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ご興味のある方はぜひ。20日より受付開始。すでに残席わずか。お申し込みはお早めにね。


いまちょうど「スポーツ報知・ダービー特集号」で某調教師にインタビューをさせていただいているのでそれも掲載しようと思いましたが、うまくスキャンできずに断念。
その調教師からは、かなりの手応えを感じましたですよ。さて、どなたでしょう。コンビニへレッツゴー!!!

そしてダービーといえば、先日NHKマイルCを勝ったジョーカプチーノも向かう予定。オーナーの上田けい子さんへのインタビューは、来週月曜日発行の週刊競馬ブックにて。こちらもやはり、コンビニへレッツゴー!!!

そんでもって同じ25日発売の月刊誌、優駿では、クローズアップGで松田博資調教師へのインタビューを執筆しております。こちらは本屋さんへレッツ・・・もうええ?(笑)

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小林稔元調教師の訃報に触れて

小林稔元調教師が、今年の1月27日にお亡くなりになっていた。
享年、82歳。心筋梗塞だったという。

わたしがその死を知ったのは、4月1日。
藤田伸二騎手への取材のあと、四方山話をしていたことから先生の話題になった。
知らなかったわたしは、ただただ驚くばかり。
健康には人一倍気を遣っていた人なだけに、もっともっと長生きされるだろうと思っていたからだ。

4月15日、ご自宅へ伺った。
友子夫人によると、亡くなる前夜は深夜1時頃までテレビを観ていて、翌1月27日、友子夫人や同居している娘さんご家族が起きた頃はまだ寝ていらしたのだという。寝ているのを起こされると怒る人なので(先生らしい・笑)そのままそっとしておいて買い物に出かけたそうだ。お昼過ぎに戻ってきたが先生はまだ寝室から出て来ておらず、あまりにも起きてくるのが遅いといぶかしんだご家族が先生の寝室を覗くとうつぶせにして亡くなっていた。
医者の診断によると、目が覚めて布団の上で体を起こし、体の向きを変えた瞬間に心筋梗塞を起こし、そのまま前へ倒れ事切れたのだろうという。苦しむこともなく、瞬間的に息を引き取っただろうとのことだった。その死に様は、闊達で何でもテキパキしていた人らしい気がする。

お葬式は、家族だけで営んだそうだ。これは先生ご自身の意向で、調教師現役時代から「死んだら、その時は家族だけで見送ってくれ」と言い続けていたらしい。


わたしが初めて小林先生にお会いしたのは、もう15年ほど前になる。厩舎の前庭には何本もの竹が植えてあり、「厳しい勝負の世界での破竹の勢いを祈願して」とのことだった。その時の力強い口ぶりが、いまも耳に焼き付いている。

ロンググレイスやタケノベルベットでのエリザベス女王杯、スズカコバンでの宝塚記念、そしてフサイチコンコルドでのダービーなどを制し、名伯楽と謳われた。風貌そのままに頑固一徹な人であったが、だからこそこだわりを持って数々の成功を収められたのだと思う。

藤田伸二騎手と話していた時、デビュー2年目でエリ女を、5年目でダービーを小林厩舎の馬で勝っている彼は「経験の浅い僕に、よく乗せてくれたものだ」と言っていた。
その話をこちらから向けたわけではないが、友子夫人がふと、彼のことを話題に出した。
「競馬場の調教師席にジョッキーが入って来ることはまずないんですが、ある日、一人の騎手が入ってきたそうです。それが、デビューしてまだ2年目の藤田伸二くん。主人は『度胸のあるやつだ』と感心していました」

厩舎には取材でよくお邪魔した。先生とチャーミングな友子夫人との軽妙なやり取りも楽しかったし、甘いものが好きな先生におはぎなどごちそうになったことも何度もある。先生と一緒に厩舎周りを歩きながら取材したことも思い出される。こちらは息を切らしながら同行するのだが、先生は汗ひとつかかずに緩みのない速度で歩きながら馬の動きを見、取材を受けてくれていた。

先生の、定年引退の際の引退式は中京競馬場で行われた。先生が開業した当時、トレセンはなく、厩舎は各競馬場にあり、先生は中京競馬場で開業したのだった。その出発の地で最後を迎えたいというのが、先生の意向だった。時を同じくして騎手を退いた南井克巳さんもやはり中京競馬場が騎手としての始発点で、引退式は一緒に中京競馬場で行われた。その時の司会はわたしで、調教師と騎手、どちらも大御所でその記念式典だっただけにやけに緊張したのを覚えている。

友子夫人によると、その式典のビデオが送られてくるまでにけっこうな時間を要し、しびれを切らしていることを何かのパーティで会ったわたしにこぼし、わたしがすぐに手配してご夫妻のもとへお送りしたという。わたし自身は記憶から抜け落ちていることだが友子夫人は「あの時は主人と一緒にとても喜んだ。ありがとうございました」と何度も何度も言って下さって、少しでもお役に立てたことがあったのだと嬉しいようなホッと安心できたような気がしたものだ。

先生が引退された1999年、わたしは初めて本を出版した。「栗東厩舎探訪記」がそれで、梅田のジュンク堂でした記念トークショーには先生にゲストとしてお越し願った。立ち見が出るほどの盛況だったうえ、本の売れ行きはジュンク堂の週間ベスト10に入った。競馬の世界が右肩上がりで隆盛を誇っている時だったとはいえあくまでも一分野の業界であり、わたしも書き物を始めてそう間もない頃に書いたもので、それが大書店でベスト10入りできたのは、先生がご出演下さったおかげだといまでも思っている。しかもその日、友子夫人は素敵なスカーフを記念にと下さって、それはいまでもわたしのお気に入りの一枚である・・・いろんな思い出が走馬灯のように駆け巡る。


そのなかで最も印象が強いのは、いつだったかご自宅へ電話した時のことだ。電話口に出たのは先生ご自身で、以前通りの力強い口ぶりだった。

「先生、お元気ですか」

「おお、生きとる!!」


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<1998.11.4撮影 / 週刊競馬ブック「芦谷有香の栗東厩舎探訪記」より>

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気がつけば1ヶ月のご無沙汰

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桜花賞が済んで、やっと一息。
といっても、仕事ばかりしていたわけでもなく、
しっかり(?)一人旅にも出てきました。


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桜花賞の翌日の今日(4/13・月)は、
藤田伸二騎手のインタビューが載った週刊競馬ブックの発売日。
読んでね。いや、買って(笑)、読んでね。

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<藤田伸二くんを挟んで、村上編集長と芦谷 / 四斗カメラマン撮影>


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旅先では海へ行くほど元気だったわたしだが、
今年も司会をさせて頂いた桜花賞前夜祭では、
舞台上での抽選会中に両足の指がつるアクシデント(!)。
疲れなのか運動不足が理由なのか分からないけど、
誰にも知られずに済んで良かった・・・(笑)。

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先週の毎日新聞のコラム「たてがみなびかせ」にも書きましたが、
「毎日杯」当日の3月28日(土)、
阪神競馬場で毎日杯の直前予想トークショーを行います。
司会はわたくしで、スポニチの柏原健士記者がいらっしゃいます。
4Rのあと、11時35分〜40分頃のスタートで、約20分間。
レース展望だけでなく、トレセンでの裏話(?)も飛び出すかも。

毎日新聞社協賛のイベントです。
競馬場での一般紙協賛のイベントは、初めてではないだろうか。

みなさまのお越しをお待ちしておりまする。

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安田伊佐夫調教師の訃報に寄せて

明るい人だった。
ほとんどの記憶は笑顔ばかりである。

よく笑わせてくれた。
その最たるエピソードは、調教師仲間と行った温泉旅行先でのこと。
「この髪のないアタマで丹前をはおって温泉街を散歩していたら、前から歩いてきた婦人ご一行が僕の目の前で立ち止まり、手を合わせて拝んできたんです。僕も神妙な顔をして、手を合わせて会釈しておきました(笑)」

口は悪かったけど、おおらかさとその朗らかさが口の悪さをカバーして、どんな時でも大概の場合、周囲の笑いを誘っていた。

もう10数年、毎年暮れのメイショウ会の司会をさせてもらってきたが、お開きになる時、先生は必ず「また一人の家へ帰るのか」とか「今年も一人で年を越すのか」「寂しいのう。あははは」と笑いながら、からかってきた。わたしはそれを、なにくれとなく声をかけてくれるというふううに嬉しくとっていたし、“今年は何を言ってくれるのか”と、年々それが楽しみになっていったほどだった。

7、8年前になるが、馬主さんなど5、6人で東京でカラオケへ行った時のこと。お店に入るとステージでは他の女性客がすでに歌っていた。玄人のような巧さがあった。わたしたちの席はステージのすぐ脇で、その歌声に聴き入ったほどだった。
ふと安田先生が口にしたのは「歌は巧いけど、顔はイマイチやなあ」。
わたしたちは固まった。どこのどんな人か知らないのに、そんなことを言っていいのか。関西なら笑いで済んでも、そこは東京である。ただ、ジョークの分かる女性だったらしく「ブスって言われたから、ハゲって言えるわ」と応酬し、そのあとその人たちとも打ち解けてみんなでおおいに楽しめた。ふり返ると、そういうジョークが通じる人かそうでないかを見極めるのに長けた人だったように思うし、みんなを楽しい気分にさせる達人だったようにも思う。

わたしが最後にお会いしたのは、昨年の夏。小倉競馬開催中で、偶然にも小倉の駅でばったりお会いしたのだった。いつものようにお元気そうで、少し立ち話して「またね」と言って新幹線に乗り込んで行った。何ら変わりない、いつもの元気溌剌とした笑顔だった。それが最後になってしまった。

新幹線といえば、メイショウドトウがなかなかGⅠで勝てなかった頃、その時もやはり偶然東京駅でばったりとお会いし、一緒に帰阪させていただいたことがある。先生は息子さんの康彦騎手と一緒で、東京だったか中山だったか競馬場の帰り道。わたしは当時、毎週末新幹線で東京へ仕事で通っていて、偶然、同じ新幹線に乗り合わせたのだった。

康彦くんは自己表現が下手で誤解を受けることもままあったが根本的には繊細で思いやりに溢れた気持ちのいい青年で、3人で楽しくしゃべりながら帰ってきたのを覚えている。その会話の中で、メイショウドトウの話になった時のこと。康彦くんは「ほかの騎手に替わったらメイショウドトウを勝たせてあげられるんだろうか。僕は降りたほうがいいんじゃないか」と苦悶した時期があったという。その話をしているあいだ、先生はひと言も口を挟まず、少し視線を落としながら優しいまなざしで息子の話に耳を傾けていた。その数ヶ月後、メイショウドトウは康彦くんを鞍上に宝塚記念を勝ち、念願の親子GⅠ制覇を果たしたのだった。

わたしが栗東で最も良く行く飲食店はあるラーメン屋さんで、先生を取材させていただいたあと、スタッフの人たちとともに「美味しいラーメン屋さんがある」と連れて行ってくれたお店だ。それがもう10年ほど前になる。美味しい上にお店のオーナーご夫妻が楽しい方で、いまではすっかりわたしの取材仕事のあとの憩いの場所となっている。

今日のお別れの会には是が非でも伺うつもりにしていた。そのために、昨夜は珍しく12時前にベッドに入った。が、寝付けなかった。詳しい死因をまだ知らないが、一説にはガンを患い、そのガンを克服したにも関わらず合併症で亡くなったと聞いたからである。もしそれが確かな情報であるならば、まるでわたしの父の亡くなり方と同じではないか。わたしの父はガンで手術を受けそれは成功したのに院内感染で亡くなった。まことに、やりきれない死に方である。

それらがまざまざと蘇り、空が白み始めても、朝刊が届いても、目も脳も冴えるいっぽうだった。少しでも眠らなければ京都まで行けないと思ったわたしは、7時頃になって眠剤を4分の1に割って口に含んだ。飲むのは1年以上ぶりだったから、よく効いた。効き過ぎて、目が覚めたのは乗るはずの電車の発車時刻だった。


先生、最期のお別れに行けなくてごめんなさい。
仲がよく笑い声の絶えなかったご家族の悲しみを思うと、やりきれなさばかりが募ります。心から、ご冥福をお祈りしております。


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<99年1月17日撮影/週刊競馬ブック「芦谷有香の栗東厩舎探訪記」厩舎・大仲にて>


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3月15日(日)、阪神競馬場で
元巨人軍選手だった水野雄仁さんと元木大介さん、
報知スポーツの記者、橋本樹理さんとの予想トークショーを開催します。
お昼休み、4Rのあとです。

来てねん。

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至善園(故宮博物院) in Taipei

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故宮博物院の敷地内には「至善園」がある。その正門は、博物院の正門に向かって右手にあるが、敷地に入ってから博物院本館の右手手前にも園へ入って行ける通路がある。
写真は、至善園の正門だ。

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豊かな緑に囲まれた回廊があり、風情を感じる。

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これは「洗筆池」。
後漢時代の草書の名手と謳われた張芝(ちょう・し)は池の端で書を書き、その筆を洗った池の水が墨で真っ黒になったという言い伝えから、名付けられたそうだ。

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<園内の回廊>

園内には、著名な書家である王羲之(おう・ぎし)にちなんだ「欄亭」もある。王羲之は酒を名士らと酌み交わしながら「欄亭序」を完成させたといい、その時の場を再現させたような円卓、椅子、銅灯などがそこにつくられている。

また、同じく著名な書家、黄庭堅(こう・ていけん)の七言絶句が刻まれた石を置いた「松風閣」もある。


ちなみに「絶句」とは漢詩における詩型の一つで、たとえば七言絶句なら一句七文字で表現する。
日本人には、杜甫の「国破れて山河あり」が有名か。あれは五言絶句で「國破山河在」と書く。
習ったの、何歳頃だったかなあ・・・忘れちまった(笑)。


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故宮博物院 in Taipei

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<天下為公アーチ>

故宮博物院の名は、中国は北京にある紫禁城のほうが有名だ。平たくいうなら、その分館といっていいかもしれない。国が違うのになぜ、と思う人も多いだろう。

中国は中華人民共和国、China。
台湾は中華民国、Republic of China。

中華民国はかつて、現在の中国本土にある江蘇省の首都である南京を首都とし、革命家、孫文が1912年に建国した。戦争による歴史的な変遷はここでは省くとして、孫文のつくった中国国民党の実権を孫文亡き後継承していた蒋介石であったが、日本が太平洋戦争に負けて植民地にしていた台湾を手放したあと内戦が起こり、それに敗れる。そして当時の中華民国軍の残党とともに、台湾へ脱出した。それが、1949年のことである。

いっぽう、1911年の清朝の滅亡後、北京の紫禁城に収蔵されていた中国皇帝のコレクションは、次から次へ起きる戦渦から逃れるようにして南京をはじめ各地を転々とし分散されて保管されたが、第二次世界大戦後の1947年に南京へ集められた。ところが内戦が激化したため、蒋介石率いる国民党政府によっておよそ4分の1が台湾へと移送されたのであった。そしてそれらが現在、台北の故宮博物院に展示されているのである。

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台北に故宮博物院が建造されたのは1965年。かたや北京の故宮博物院は、紫禁城に1925年に造られた。

驚くのは、その収蔵品の数々である。北京の故宮にある収蔵品よりも評価が高いと言われている。それほど、選りすぐりのものが収蔵されているのだ。

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世界五大博物館の一つともいわれ、敷地はおよそ12000坪。およそ65万点が収められており、青銅器、玉器、陶磁器、書画などありとあらゆるものが整然と展示されている。かなり広くて収蔵品も多いので、ゆっくり見て回ると丸一日はかかるだろう。

ただし、内部はとても拝観しやすいつくりになっている。たとえば1階は清時代の家具や文物、宗教彫塑芸術など、2階へ行くと六朝・惰・唐・宗〜元、明代など、3階は新石器時代、青銅器、工芸品、そして秦〜漢時代などとそれぞれに部屋が分かれているのである。それは見やすいだけでなく、廊下に出た時に頭の中の時代を切り替えるのにも効力があった。

感嘆の溜め息が思わずついて出るものも非常に多く、精巧緻密な彫刻には特に目を奪われたものだ。

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ついでながら、こちらの写真も披露しておこう。建物内部に入る前の通路にあったゴミ箱である。アジアの多くの国の公園や博物館などでは、こうした背景に美しく馴染むものが配置されている。日本もこうあって欲しいものだ。

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忠烈祠 in Taipei

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彼の地の言葉で「チョンリエツー」と発音するここは、日本でいうところの靖国神社。戦争で命を落とした軍人や志士の霊を祀っている。創建されたのは、1969年。

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正門にはその両脇にそれぞれ1人ずつ、衛兵が立っている。微動だにしない姿はそれがそのまま厳かな雰囲気を醸し出している。

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正門から望んだ本殿。北京にある紫禁城(故宮)の太和殿を模しているのだという。内部では、禁煙はもちろん、脱帽すべし。


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忠烈祠では1時間に1度、衛兵の交代式が行われる。本殿から衛兵が隊列を組んで歩いてきた。

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歩幅、手足をあげる角度、銃を回す速度など、一糸乱れぬ姿で行進するさまは圧巻。観ているこちらも、気づけば息を止めて見つめていた。

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3月29日の青年節と9月3日の軍人節が行われるそうだが、一般客は見ることはできない。


忠烈祠に祀られている英霊は、およそ35万人という。国民革命などで亡くなった人もたくさんいるが、この忠烈祠に祀られている多くは、日本との戦争で命を落とした人々だと聞いた。日本はかつて台湾を植民地として支配し、それは1895年から太平洋戦争で敗戦するまで51年間にも及んだという。

台湾では親日家が多いし、現地では日本語で書かれた親切なガイドブックがホテルなどで無料でもらえる。ただ、わたしが手に入れたガイドブックには、忠烈祠は載っていなかった。

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夜市 in Taipei

「夜市」と書いて、「よいち」と読む。意味はまんま、夜の市だ。

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台北市内では、あたりが暮色に染まり出すと基隆や臨江街など、あちこちで夜市が店開きを始める。わたしが行ったのは「士林」の夜市で、士林はスーリン、夜市はイエスーと発音する。

上の写真は市にあった一つの出店で、市民が野菜を買って帰る。それぞれが適度な大きさに切ってあり、働く人々はそれらを買って帰ればすぐに調理できるというわけだ。野菜は新鮮そうだったし、とにかく全体的に衛生面に気を配っているようであった。日本にもそういうお店があったら、どれほど便利だろう。すぐに料理できるだけでなく、切ってあるから必要な分だけを買えば無駄もない。

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夜市の様子。街中を走る大東路を中心に、網の目状に走る店の数々にくわえてたくさんの露店も姿を現す。一帯は、数えきれないほどの店や露店に人を追い越すのが大変なほどの人々で溢れかえる。それはもう、賑やかである。

この士林夜市へ向かった時、やはり台湾人のホスピタリティを感じる出来事があった。

タクシーで向かったのだが、どうやら降りる場所を間違えたらしく、市の場所が分からない。そこへ通りかかった高校生ぐらいの女の子二人連れに聞くと、一人がつとわたしの腕を取って歩き出した。彼女は地下通路へと案内してくれたのだ。通りの反対側だったらしい。

地下通路への案内だけと、ふつうなら思う。そこまで案内してくれただけでも御の字だ。彼女たちはその地下から上がってきたところだったから、なおさらだ。
ところが、彼女たちはわたしと一緒に地下通路へ下り、歩き、上がって地上に出て、しかもお勧めのお店まで教えてくれたのである。そうしてから、笑顔でまた地下通路へと降りて行った。


彼女たちの笑顔を、わたしはきっと忘れない。


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